奈良観光の未来をデザインする
「キャラ」化する地域の向こう側
遠藤英樹 奈良県立大学

高い「せんとくん」人気
 去る4月24日、平城遷都1300年祭の主会場となる平城宮跡会場がオープンした。私もさっそく、連休中の一日をつかって見に出かけた。大極殿、朱雀門、東院庭園広場はもちろんのこと、パビリオンである平城京歴史館、平城京なりきり体験館も、普段の奈良からは考えられないくらい、たくさんの人でにぎわいを見せていた。平城京歴史館に行きたかったのだが、行列で入れずじまいであったくらいだ。
 詰めかけたたくさんの人に満足して帰ってもらうためには、まだまだ、たくさんの工夫が必要ではある。たとえば、連休中日差しがとても強く、お年寄りやお子さんにとっては、けっこうつらいのではないかと思われたが、日陰で休むための場所も少ないように感じた。また平城京歴史館も入館者を一日4500人までに制限しており、せっかく遠くから観光客が来てくれても入ることができないということもあったようだ。土産物売り場でも、混雑のあまり、長蛇の列がレジ前にできており、なかなか買えない状況であった。
 このように、改善すべき点は多々あるかもしれないが、それでもこれだけの人が来てくれたのは大成功だったではないか。その中でもとくに、大きな歓声のあがる場所があった。交流広場の「まほろばステージ」である。この場所に、「せんとくん」が登場するとき、老若男女みんなが大歓声をあげ「せんとくん」を迎えていたのである。まるでディズニーランドでミッキーマウスを見たときの歓声のようだった。「せんとくん」の人気の高さを感じた瞬間である。

地域振興に大きな役割をはたすキャラクターたち
「せんとくん」はその代表例だが、いま地域のキャラクターたちが地域振興に大きな役割をはたすようになっている。いわゆる「ご当地キャラクター」と言われるものだ。
 奈良県以外では、滋賀県の「ひこにゃん」、北海道の「まりもっこり」、栃木県日光江戸村の「にゃんまげ」、秋田県の「超神ネイガー」をはじめとして、全国いたる都道府県に「ご当地キャラクター」がいるが、これらの人気が高まるにつれて、地域にも多くの観光客が訪れ、地域が活性化するというサイクルが生まれている。
 奈良県では「せんとくん」以外にも、「まんとくん」「なーむくん」「蓮花ちゃん」「左近くん」などのキャラクターが登場し、地域振興に一役買っている。現代における地域づくり、地域おこしには、こうした「ご当地キャラクター」はなくてはならない存在になっている。
 奈良県のたくさんのキャラクターのなかでも、「せんとくん」は目立つ存在であろう。
 「せんとくん」は、彫刻家・藪内佐斗司氏が平城遷都1300年祭のキャラクターとしてデザインし、2008年2月に発表された。発表当初、童子に鹿の角が生えているリアルな造形を見た人たちから、「気持ち悪い」「かわいくない」という否定的な評価が相次いだ。市民グループも「どうして勝手にこんなキャラクターにしたのか」と独自に「まんとくん」をつくったり、仏教界からも「鹿の角をはやすなんて仏様を冒涜している」と「なーむくん」をつくったりした。
 だが、この騒動がマスコミに連日とりあげられ「せんとくん」の知名度があがり、見慣れてきたのだろうか、「気持ち悪いが、それがかわいい」と評価が少しずつ変わっていったのである。こうして「せんとくん」は、平城遷都1300年祭を盛り上げる「キモかわいい(気持ち悪いけれど、かわいい)」キャラとして定着し、人気を博するようになった。

「キャラ」化する地域
「せんとくん」のように、「ご当地キャラクター」が持っている特徴の一部分だけがきわだって受け入れられ、それが定着していくようになると、その地域に観光客が訪れるようになる。いまの地域には、こうした現象が目立つようになっている。
 社会学者・瀬沼文彰氏の『キャラ論』という本によると、「キャラ」とは性格のことではなく、ある人物やキャラクターの性格や特徴の一部分だけを強調させ、それを定着・固定化させたものだと言う。「ご当地キャラクター」、さらには、ある人間が持っている特徴をきわだたせ、それを「癒しキャラ」「ゆるキャラ」「ボケキャラ」「つっこみキャラ」「かわいいキャラ」「なぞキャラ」といったかたちで定着させていく。相原博之氏も『キャラ化するニッポン』で、「キャラ」を定着させる(これを「キャラを立たせる」と言う)ことで、現代社会に生きる私たちは人間関係を形づくるようになっていると言う。
 みんなが大歓声をあげ「せんとくん」を迎えたのを見たとき、平城遷都1300年祭は、この「キャラ」に依存した状態ではないかと思った。「ご当時キャラクター」をうまく使うことは、決して悪いことだと思わない。だが、私たちが暮らしをいとなみ、未来へと引き継いでいく奈良という地域のかたちは、「ご当地キャラクター」の「キャラ」に依存するだけでは決してすまない部分があるはずだ。そうした部分をしっかり考えておくこと、このことだけは必要なはずである。「せんとくん」が良いとか悪いという問題ではない。悠久のときを今も、そして、これからも刻み続ける奈良のかたちは、「せんとくん」であれ「まんとくん」であれ「なーむくん」であれ、キャラクターの「キャラ」に依存していては見えてこないのである。私たちは、「キャラ」化する地域の向こう側をそろそろ見据えるときに来ているのではないだろうか。